「八百万の神」は、それぞれ個性をもった「あまたのはたらき」で
ある。
ことたま(神)は、八百万の神々の因となる「はたらき」である。
先天のことたまには「九つの音=数の宇宙」があり、この九つに
「八つの韻」を加えて「先天十七神」となる。
八つの韻は、想像や創造を生す因となる揺らぎであり、父韻という。
「九つの音の宇宙」は、五つの母音宇宙と、四つの副母音からなる。
十六番の神が「いざなぎ」であり、
十七番の神が「いざなみ」である。この二神が創造の大神である。
「いざなぎ大神」と「いざなみ大神」は、まぐわって
「はじめに顕在化の理(ことわり)」を生す。これが「ひるこ」である。
「ひるこ」を「和歌」といい、その結果が「和歌の子」である。
創造の大神二神は、まぐわいの理(ことわり)で、
後天のことたま四十神を「産む」。
この四十神のうち、創造の韻(父韻)であるところの「八韻」から産した
「八音の創造神」は、創造八神であるがゆえに
先天のことたまに加えられて「先天十七神」に数えられる。(7+2+8=17).
四十神のうち、三十二神(マナ)が後天構造のコトタマとして
次々に誕生していく。
マナは、マニともマヌとも称される。
先天の前の宇宙は「無」であり。帰結する宇宙が「空」である。
「無」のことたまが「う」である。
「空」のことたまが「ん」である。
わたしたちは帰結宇宙を「ウン」であらわす。
「ウン」につながることを「運がよい」ともいう。
「ん」のことだまの神名を「ヒのかぐつち」という。
「ヒ」は、火を象徴するが、霊(ヒ)のことである。
「ヒ」の山は御嶽山に表徴され、「創造の女神いざなみ」の
「焼けただれた産道」は、噴火口の産道を指す。
噴火口が「ほと=女陰」に表徴される。
女神いざなみは、最後に「空」を生(な)して
天命を終えたのである。(フルコトフミ神代の巻で暗示).
また、先天の神々「十七神」の十七番目の神が、
いざなみなのであって、十六の神の連なりによって
産まれる「ことたまの創造の流れ」を日本の人々は
「発句=俳句(17連)」という文化にしているのである。
十六の言霊のつらなりは、十七番目に「虚(こ)」と
いう結果を「生(な)す」。
「虚を生せば、素(±ゼロ)に直る」.
三十一音の言霊のつらなりは、三十二番目に「実」という結果を
「産(な)す」。例えば子を産す。個を生す。戸を成す。
この三十二番目を表徴する実りの神が「おおげつ姫」であり、
結果を生せば、三十三番目の「空 = ±ゼロ」に帰す。
その「空」がエネルギーホールである。
起点である。
それを「スに直る=素なお=素直」とも表現する。
御破算ともいい、拓きなおるともいう次元である。
再度いう。
御嶽は火の嶽、「火のかぐつち」を生む「多気(たけ)」である。
調和が著しく壊れたとき、自然界は不調和を±ゼロの
「調和の位置」に戻す。
それが宇宙の理(ことわり)なのである。
御嶽周辺の神社を巡ると、
火のカグツチ神・大御食(おおみけ)神・大なむち神を
祀っている神社がある。(例えば美濃の白川・赤河あたり).
神社に「先天十七神」の名が刻まれるようになったのは
明治期の国家神道の展開期に端を発するようだが、
火のかぐつち神・おおみけ神は大昔からそこに鎮座坐(ま)して
おられるのである。
しらやま・おんたけ文化圏には尋常ならざる世界が
ひとびとの気づきのときを待つかのように
いまだ沈黙を保っている。
「アメのみや」とは? 「あめのみや古墳群」とは?
「みわ山」はなぜ、すり替えられたのか。
おおした
「ヒの かぐつち神」は
別名を「ヒの にぎはや男」の神ともいわれているようだが、
「にぎはや男」は「にぎはや女」と対をなすのであって
同じではない。